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第7回 平家物語 灌頂巻 大原御幸

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原文は梶原正昭・山下宏明校注『新日本古典文学大系45』(岩波書店)より転載。原文の表記の一部を修正している。

 遠い山にかかる白い雲は、散ってしまった桜の面影を伝える形見である。青葉に見える梢を見れば、過ぎ去った春の名残が惜しまれる。

 時節は四月二十日過ぎのことなので、後白河法皇は、茂る夏草の葉末を分け入らせなさるが、こちらへは初めての御幸なので、お目になれたところもなく、どこを見ても物珍しい。人の往来が途絶えたさまもしみじみとお感じになられて、哀愁がつのる。

 西の山のふもとに、一軒の御堂がある。そう、これがかの寂光院である。古めかしく作ってある庭の池水や木立など、風情ある様子の場所だ。

 「屋根が壊れ破れて霧が入り込み、不断の香を焚(た)くかのごとく、戸は朽ち落ちて月の光が差し込み、常住の灯火をかかげるかのようだ」との名句は、こんなところの謂いだろうか。庭の若草は競って繁茂し、青々とした柳は風にゆれて糸のような葉を絡ませ、池の浮き草は波にただよい、まるで錦を水にさらしているのかと間違えそうだ。

 池の中島の松に掛かった藤の花房が波のようになびき、色紫に咲き誇る。青葉まじりの遅桜は、古歌にもいうように初咲きの桜花よりもめずらしく、岸の山吹は咲き乱れ、幾重にも重なって立ち上る雲の絶え間から、山ほととぎすが一声鳴く。その音までも、上皇のお出ましを待ちこがれる様子である。

「大原御幸絵巻」(寂光院蔵)後白河法皇が訪ねると、阿波の内侍という旧知の老尼が出迎えた(中央)。折しも建礼門院は、故安徳天皇の乳母大納言佐と二人で山に入り(左上)、花かごを下げて岩躑躅など、花を摘みに出かけていた
「大原御幸絵巻」(寂光院蔵)後白河法皇が訪ねると、阿波の内侍という旧知の老尼が出迎えた(中央)。折しも建礼門院は、故安徳天皇の乳母大納言佐と二人で山に入り(左上)、花かごを下げて岩躑躅など、花を摘みに出かけていた


散る桜、時代の終えんに重ね



 文治2(1186)年初夏の候。後白河法皇は、側近の貴紳たちと大原の寂光院に建礼門院を訪ねた。他の資料を参照すると、4月23日のことらしい。鞍馬街道の九十九折(つづらおり)を抜け、夏草をかき分けてたどり着く。山寺のながめは、遠山の白い雲、桜の残花、青葉、柳、池の浮き草と、春から夏へ、季節の推移が景色にたゆたい、艶(あで)やかなグラデーションを織りなす。ほととぎすの一声も胸を打つ。

 女院は平清盛の娘徳子。後白河の子高倉天皇の中宮で、安徳天皇を産んだ。母の二位の尼時子は、後白河の妃滋子の異母姉だ。幼い安徳は、平家の敗走に伴い、三種の神器を具して都落ちした。レガリアを欠落したまま、安徳の異母弟後鳥羽天皇は、都で即位を強行。不思議な二帝並立が実現した。

 『平家物語』によれば、二位の尼時子は、元暦2(1185)年3月24日の壇ノ浦の戦いで、三種の神器の「神璽をわきにはさみ、宝剣を腰にさし」て、「わが身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ。主上の御ともに参るなり」、志を等しくする人々はいざ続け。舷(ふなばた)でそう叫び、数え8歳の孫安徳天皇を抱いて、さあ極楽浄土へ。「浪のしたにも、めでたき都のさぶらふぞ」となぐさめ説いて海に沈んだ。慈円の『愚管抄』も事態を略述し、「内大臣宗盛以下数ヲツクシテ入海」したと記す。

 建礼門院も入水したが、熊手で髪をたぐられて、船に乗せ上げ救済されたと『平家物語』は語る。文治元年5月1日に出家。9月末に寂光院に入った。

 「宝剣」天叢雲(むらくも)剣は、慈円の兄で時の権力者、九条兼実が懇切に指揮した長期の捜索にもかかわらず、ついに発見されなかった。後鳥羽院らによる承久の乱(1221年)を予見するように書かれた『愚管抄』は、天皇の王法にとって宝剣の喪失は「心ウキコト」だが、今になって思えば、「武士ノキミノ御マモリトナリタル世ニナレバ、ソレニカヘテウセタルニヤ」、武士が帝の守護となる代わりに、宝剣は消滅したのだろうかと論じる。

 女院は、山へ花摘みに行き不在であった。花摘みは『法華経』に説く成仏の営みだ。庵室には、阿弥陀の三尊があり、極楽往生のしつらいが整う。やがて下山した女院と涙の再会を果たした後白河は、平家の栄枯盛衰と壇ノ浦の最期を聞く。

 その後女院は、明石の浦で、安徳帝以下の亡き人々が内裏より立派な竜宮城にいる様を夢に見て、母二位の尼から、菩提(ぼだい)を弔えと告げられた…。女院は、まさに『平家』世界を自己語りしながら、うつつに輪廻(りんね)の六道を見たと法皇に打ち明ける。日暮れを知らせる寂光院の鐘が鳴り、夕陽(ゆうひ)は西に傾く。法皇は名残を惜しみつつ、都へと帰って行った。

 そして女院は、阿弥陀仏の御手に懸けた五色の糸を引きながら、祈りと念仏の歳月を重ねた。ある日、西に紫の雲がたなびき、芳しい香りと音楽が拡(ひろ)がって、女院は極楽往生を遂げる。作品も大団円を迎えた。建久2(1191)年2月中旬のことだと『平家物語』は語る。

 ただし『源平盛衰記』は貞応3(1224)年春に亡くなったと伝え、『女院小伝』他は建保元(1213)年12月13日に崩じたと記している。貞応2年没との新説もある(角田文衞)。没年は定かでない。

 建礼門院の生まれは久寿2(1155)年。『愚管抄』の著者慈円(1155~1225年)と同い年だ。50歳で出家後「ムナシク大原山ノ雲ニ臥(ふ)シテ」5年を過ごしたと『方丈記』に書いた鴨長明(1155?~1216年)とも同世代である。後鳥羽院が承久の乱後、隠岐の島へ流されても執着して編纂(へんさん)を続けた『新古今和歌集』と併せ、それぞれの世界を味読してみたいものだ。


寂光院(京都市左京区)

寂光院山門に至る石段。名残の桜から花びらが舞う
寂光院山門に至る石段。名残の桜から花びらが舞う
寂光院地図
寂光院地図

 大原のバス停から十数分、寂光院へは細い道をたどって至る。桜は名残の花吹雪、代わって咲き誇るのは菜の花で、畑が黄色い波となって揺れている。週も半ば、午後のせいか観光客は少なく、「平家物語」の栄枯盛衰を象徴する舞台へ向かう道行きに、雰囲気は十分だ。

 寂光院手前には大原西陵、建礼門院の墓所があり、木の間隠れに本堂の屋根が見える。その本堂と庭園をはさんで建つ山門までの参道は、古びた石段。石の間から太い木がそびえ立ち、推古2(594)年創建という寂光院の古刹(こさつ)ぶりがうかがえる。玉石と苔(こけ)が際立つ庭の風情はすばらしい。桜舞い散る汀(みぎわ)の池、苔むす石に姫子松。さらに西へ向かうと、木立の間にひっそりと建つ「建礼門院御庵室跡」の碑。静寂の中、「大原御幸」の後白河法皇と建礼門院再会の場面が、幻となって浮かび上がる。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2018年4月26日掲載】