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(26)伏見インクライン(京都市伏見区)

車に客も敷地も奪われ
橦木横断歩道橋から見た国道24号。横断歩道の少し奥付近までインクラインがあった(京都市伏見区)
撞木横断歩道橋から見た国道24号。横断歩道の少し奥付近までインクラインがあった(京都市伏見区)

 インクラインと聞くと多くの人は、桜の名所として知られる蹴上(京都市左京・東山区)の風景を思い浮かべるだろう。しかし、かつては伏見区にもインクラインがあり物流の一端を担った。国道へと姿を変えた傾斜鉄道の跡地を訪ねた。

 伏見インクラインは近鉄伏見駅東側の、現在は国道24号になっている場所にあった。斜面の長さは約300メートル、勾配10%で傾斜は蹴上よりもきつかった。琵琶湖疏水アカデミーの小森千賀子さん(55)に案内してもらう。

往時の伏見インクライン。勾配は10%でかなりの急な坂だった(京都市上下水道局提供)
往時の伏見インクライン。勾配は10%でかなりの急な坂だった(京都市上下水道局提供)

 まずインクラインの概要を聞く。「ケーブルカーの原理と同じと言われます。ワイヤにつながれた台車や車両が上下するものです。傾斜下側には動力室があり、巻き上げ機がワイヤを巻き取っていました」

 最初に向かったのは下側の曙橋だ。かつて疏水はこの場所で西から南へと流れを変え、濠川(ごうかわ)に注いでいた。国道脇の濠川西岸には広大な空き地があった。そのフェンスには「不法投棄禁止 疏水事務所長」の張り紙。「ここに巻き上げ機があったんです」と小森さん。今や建物もなく面影はない。

「橦木橋」の名が刻まれた、かつての陸橋の親柱
「撞木橋」の名が刻まれた、かつての陸橋の親柱
巻き上げ機があった場所は空き地となっており、「疏水事務所長」名の張り紙があった
巻き上げ機があった場所は空き地となっており、「疏水事務所長」名の張り紙があった

 国道24号を東に向かって進む。伏見郵便局の向かいを通り過ぎると歩道橋があった。「インクライン跡の全景が見えますよ」。小森さんに連れられ、少し揺れる撞木(しゅもく)横断歩道橋に上る。眼下では坂道の国道を自動車が勢いよく走っている。往時は台車に乗せられた船がゆったりと行き交っていた。

 国道をまたぐ歩道橋のように、軌道上には「撞木橋」という陸橋があった。歩道橋の近くの両替町通には「撞木橋」と書かれたかつての親柱が残っている。

 明治24(1891)年、前年に琵琶湖疏水が開通したことを受け、蹴上インクラインが開業。大津と京都が舟運で結ばれた。さらに大津から大阪までを一貫して舟で接続する計画が持ち上がった。鴨川東岸に新たな運河を開削するもので、伏見では伏見城の外堀がその用地となった。

 しかし、構造上落差が発生するため疏水で2カ所目のインクライン設置が決まった。明治27(94)年に工事が始まり翌年3月に完成。舟運は安価のため多くの人に利用された。

 転機は昭和10(1935)年、鴨川大洪水(京都大水害)の発生だった。下京区付近の運河の設備が破損し七条通以南でしか舟の往来ができなくなった。普及が進む自動車に客や貨物を奪われ利用は減少。伏見インクラインは昭和18(43)年8月に運行を中止。以降は市の取り扱う、し尿の運搬のみを行ったが、それも昭和21(46)年限りとなった。昭和43(68)年には敷地は国道予定地として国に売却された。

 坂道を上がり京町通を南側へと渡る。国道のそばには上下水道局の建物が並び往時をしのばせる。インクラインは後発のライバルである自動車に追いやられ、最後には敷地まで奪われた。「遺構が残っていれば立派な産業遺産なんですが」と小森さん。モータリゼーションの波の強烈さを知った。

伏見インクライン

伏見インクライン

 小森さんによると軌間は「8尺4寸8分」だったといい、2.5メートル以上あったようだ。新幹線や京阪、京都市営地下鉄などの軌間より1メートル以上広かった。ワイヤなどの設備は昭和34(1959)年に撤去されており、現在では確認は難しい。

【2018年04月13日掲載】