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第18回 伊勢物語 八十二段

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原文は秋山虔校注『新日本古典文学大系17』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している。

 昔、惟喬親王という方がいらっしゃった。山崎の向こう、水無瀬というところに、離宮があった。毎年の桜の花盛りには、その離宮へお越しになったものである。そうした時は、右の馬頭(うまのかみ)(左右あった馬寮(めりよう)の長官)であった人をいつもお連れであった。もう世を隔て時間もたって久しいので、その人の名前を忘れてしまったよ。

 鷹狩りをするのだが、狩りとは名ばかりで、酒ばかり飲みながら、熱心に和歌を詠作していた。今日、狩りをする交野の、渚の院という家の桜が、とりわけ素晴らしい風情で咲いている。そこでその桜の木のもとに馬から下りて腰をおろして、花の枝を折って髪飾りに挿して、身分の上下を問わず、みな和歌を詠んだ。あの馬頭(うまのかみ)が詠んだ歌。

 この世の中にもし桜というものがまったく無かったならば、春の人の心はどれほど長閑(のどか)でおだやかだったろうか。
とね、詠んだのである。別の人の歌は、

 散るからこそ、いっそう桜の花は称讃に値する、このつらい世の中に何が永遠であろうものか。
などと詠み交わして、その木のもとは立ち去って帰途につく頃には、日暮れ時になってしまった。

「伊勢物語図屏風」左隻(国文学研究資料館鉄心斎文庫蔵)。画面左下に、八十二段の渚の院の花見を描く。高坏を前に2人の男性が談笑する。左の艶やかな装束の男性が惟喬親王。右は業平だろう。鷹狩りの名手だという業平の左手には、鷹が据えられている
「伊勢物語図屏風」左隻(国文学研究資料館鉄心斎文庫蔵)。画面左下に、八十二段の渚の院の花見を描く。高坏を前に2人の男性が談笑する。左の艶やかな装束の男性が惟喬親王。右は業平だろう。鷹狩りの名手だという業平の左手には、鷹が据えられている
『伊勢物語図屏風』左隻は、国文学研究資料館鉄心斎文庫のサイトで見られます


はかなき憂き世の無常



 花は桜。だが『万葉集』の時代は梅である。「ももしきの大宮人(おほみやびと)はいとまあれや梅をかざしてここにつどひつ」。宮廷貴族が梅を髪飾りにして、のんびりとここに集った。ただそれだけの長閑(のどか)な春の光景を謳(うた)う。原典は漢文で「百礒城之大宮人(おほみやびと)者暇有也 梅乎挿頭而此間集有」と表記されるが、『新古今和歌集』では下二句が「桜かざしてけふも暮らしつ」となる。ある日の花見を詠んだ『万葉集』の写生歌は、平安人の懶惰(らんだ)な日常への嘆息と転じ、梅はいつしか桜になった。時代と風土の違いが、古歌の訓読をリニューアルする。

 桜なんぞこの世になければ、さぞかし春は「のどけからまし」。「いとまあれや」の対極のようだが、「まし」は現実にないことの仮想で、裏返しの修辞である。散ればこその桜さ、と強がる別の人の歌も「光のどけき春の日に静心(しづこころ)なく花の散るらん」とは逆説の讃辞だ。はかなさが憂き世の無常を教えると、仏教色も織り込む。あにはからんや、次の八十三段で惟喬親王は出家してしまう。

 右の馬頭なる人物は、在原業平(825~880年)その人である。「世中に」の和歌も業平を作者として『古今和歌集』に載る。業平は、貞観7(865)年に右馬頭に就く。その頃、文徳天皇第一皇子の惟高親王(844~897年)は二十代前半。不遇であった。嘉祥3(850)年11月25日、惟仁親王が皇太子となった。「誕生の後、纔(わづか)に九ケ月なり」(『古事談』)。後の清和天皇である。正史『日本三代実録』の即位前紀もこの異常事態に言及し、「大枝(おほえ)を超えて走り超えて躍り騰(あ)がり超えて」、わが護(も)る田で餌をあさって食(は)む鴫(しぎ)は雄々(おお)しい鴫(しぎ)よ、と歌う「童謡(わざうた)」(作者不明のはやり歌)を引く。大枝(おおえ)は「大兄(おおえ)」。文徳天皇には四皇子がおり、第一は惟喬、第二は惟条(これえだ)、第三は惟彦(これひこ)親王。ところが皇太子には第四皇子の惟仁が指名された。「天意」は、三兄を超えて惟仁が立太子した故に、この「三超の謠」が有ると言うのだろう。時の識者はそう推察したと『三代実録』は記す。

 「惟喬親王の東宮あらそひ」(『大鏡』)があったとも伝わる。文徳天皇の愛情は惟喬に注がれたが、末弟があっさりその地位を奪って皇太子となる。文徳は、まず惟喬を太子にして即位させ、幼い惟仁が成長の後、天皇の位を譲ればいい、と考えた。だが惟仁の祖父は太政大臣藤原良房である。帝も良房も鬱屈を抱える中、左大臣源信(まこと)が間に入って帝を説得、帝はやがて崩御した。

 このことは、清和の御代、業平が馬頭となった翌年の貞観八年の応天門の変で、伴大納言善男が源信を犯人として告発した因縁へと波及する(『大鏡裏書(うらがき)』)。『平家物語』巻八「名虎(なとら)」は、文徳崩御後、後継争いが発生し、惟喬には東寺の真済(しんぜい)(紀氏)、惟仁には比叡山の恵亮(えりよう)が激しい祈祷合戦を繰り広げたという。

 その中で、名虎と能雄(よしお)が相撲で戦った時、恵亮は独鈷で自分の脳髄を突き砕き「乳和」して護(も)摩に炊く秘法で能雄を勝たせ、清和天皇が誕生したと『平家』は語る。名虎も紀氏。惟喬の母の父である。能雄は不明だが、伴大納言善男のイメージが漂う。荒唐無稽の底流に真実のかけらが光る。

 河原院の源融を描く八十一段には、業平を韜晦的に投影した「かたゐおきな」が登場する(「文遊回廊」第12回)。八十三段にも惟喬が水無瀬で「例の狩りしにおはします供に、馬の頭なる翁つかうまつれり」とある。馬頭は親王を離宮に送り「とく去(い)なんと思ふに」、引き留められて酒を飲み、夜を明かした。時は三月尽(やよいのつごもり)だ。

 八十二段もこの後「御供なる人、酒をもたせて野より出で来たり」。さあ飲もうと「よき所を求めゆくに、天の河といふ所にいたりぬ」。宴(うたげ)の後、離宮に戻り「夜ふくるまで酒飲み物語して」、親王はすっかり酔っ払った。寝室へ入ろうとすると、馬頭は「あかなくにまだきも月のかくるるか山の端(は)にげて入れずもあらなん」と引き留めた。

 ところが八十三段の後半で親王は「思ひのほかに」出家し、京都北東部の小野(八瀬大原一帯)に隠棲してしまう。正月に雪深い小野を訪ねた業平は「公事(おほやけごと)どもありければ、えさぶらはで、夕暮れに帰る」。隔世の感に業平は「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは」とひたすら泣いた。


渚院跡(大阪府枚方市渚元町)

左が渚院跡の石碑。桜も植樹されている (大阪府枚方市渚元町)
左が渚院跡の石碑。桜も植樹されている (大阪府枚方市渚元町)
渚院跡地図
渚院跡地図

 交野ケ原は、狩りに花見にと平安貴族を魅了した淀川べりの丘陵地。そこに、惟喬親王の別荘「渚院」もあった。京阪電鉄御殿山駅から渚院跡への道沿いには新旧の住宅が立ち並び、さすがに千年前の交野の姿は夢幻の彼方。渚院をしのぶよすがは、そんな住宅地の中の柵で囲まれた広場に立つ碑だけである。

 1661年建立の碑文は、渚院のあった地がいかにすばらしかったかを伝えるが、激しく風化し、読むことができない。拓本などを元に2002年に復元された新しい碑が業平の歌碑とともに建てられている。

 渚院を出た親王らは、近くを流れ淀川にそそぐ天の河(天野川)のほとりでも、歌を詠み、酒をくみ交わす。多分、舟で淀川を上り、水無瀬の離宮へ。宴は、花の盛りと競うように高揚し、果てもなく続く。(辻恒人)

※渚院跡には隣接の枚方市立渚保育所<072(849)3046>で柵の開錠をしてもらい入る。日曜、祝日は不可。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2019年3月28日掲載】