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(32)中丹鉄道(京丹波町・南丹市)

活性化期待も果たせず
須知の駅が置かれる予定だった場所付近(京都府京丹波町須知)
須知の駅が置かれる予定だった場所付近(京都府京丹波町須知)

 大正時代、山陰線の通らなかった京都府京丹波町須知地域に鉄道を敷設する計画が立てられた。活性化を期して地元住民たちが会社を設立したが、凶作などの影響を受けて実現しなかった。丹波高地に消えた鉄道の夢を追った。

 須知地域とJR山陰線の日吉駅(当時は殿田駅。南丹市日吉町)を結ぶ、約8キロの中丹鉄道だ。ルートは現在の府道日吉京丹波線に沿う。始発駅「須知」の予定地は現在の「道の駅丹波マーケス」の近くだ。

 道の駅敷地内にある京丹波町観光協会で電動アシスト自転車を借りた。貸し出し手続き中、女性職員が行き先を尋ねる。JR日吉駅まで往復すると告げると「アップダウンがかなりあるので気を付けてくださいね」とくぎを刺す一言。どきりとする。

京丹波町と南丹市の境界付近の府道。付近の木々は色づいている
京丹波町と南丹市の境界付近の府道。付近の木々は色づいている

 軽快に道の駅からこぎ出す。すぐにやや急な坂が待ち受けていた。標高482メートルの美女山の北辺を登っているようだ。少し進むと府道はゴルフ場の真ん中を突っ切る。

 周囲の山は色づき始めており美しい。鉄道が開通していれば、紅葉時期には特別列車が走り人気を博していたかもしれない。

 道の駅から15分余りで京丹波町と南丹市の境に着いた。さらに進むと日吉町志和賀の三差路に出た。中丹鉄道はこのあたりに志和賀の駅を設ける構想だった。府道南側には刈り取りを終えた田んぼが広がり民家も点在する。道は平らで自転車もこぎやすい。

 1910(明治43)年、京都―綾部間の鉄路が須知を経由せず開通した。それまで山陰街道の要衝として栄えた須知は「人馬往来は少なくなり商工業者は衰退に陥った」(丹波町誌)。窮状を打開しようと須知の有力者、岩崎平造ら地元住民約30人が出資し設立したのが中丹鉄道だ。24年には国の免許が下りた。

地元の出資者が名を連ねる中丹鉄道の会社定款(南丹市立文化博物館提供)
地元の出資者が名を連ねる中丹鉄道の会社定款(南丹市立文化博物館提供)

 南丹市立文化博物館には岩崎ゆかりの文書として中丹鉄道の会社定款が収蔵されている。定款には発起人として地元住民の名が並ぶ。同館の犬持雅哉学芸員(43)は「当時の須知では飛行場を誘致するなどして活性化を模索したが失敗した。自分たちで鉄道敷設するしかないと立ち上げたのが中丹鉄道だった」と解説する。

 しかし20年代後半、地域は天候不順に見舞われた。京都地方気象台の記録を見ると26年6月、27年7月の降水量は平年の4割程度にとどまっている。28年には施工期限の延長を国に申請。申請書では干ばつが続き、米の収穫量が少ない上に昭和金融恐慌も発生し融資も見込めないと苦境を吐露している。29年には免許が失効した。

中丹鉄道の免許失効を伝える1929年8月30日付の官報(国立国会図書館蔵)
中丹鉄道の免許失効を伝える1929年8月30日付の官報(国立国会図書館蔵)
志和賀駅が設けられる予定だった志和賀の集落(南丹市日吉町)
志和賀駅が設けられる予定だった志和賀の集落(南丹市日吉町)

 志和賀から平らな道が続く。15分ほどこぐと目の前に山陰線の踏切が見えてきた。ここから中丹鉄道は山陰線に並走し日吉駅に向かうはずだった。

 道の駅を出て約40分、日吉駅に到着した。あっけなく感じるくらいに激しいアップダウンはなかった。当時の須知の人たちは高低差の少ない区間だからこそ、鉄道敷設に実現性を見いだし地域振興に大いなる希望を抱いたのだろう。免許失効時の落胆は想像に余りある。

中丹鉄道

中丹鉄道

 京都府立京都学・歴彩館の資料によるとルート選定の際、須知と山陰線の園部、日吉、胡麻の各駅との間を比較した。直線かつ平らでトンネル建設の必要がない日吉に接続することにしたという。開業後は1日6往復を想定していた。現在は日吉駅―志和賀間に南丹市営バスが1日3往復走っている。

【2018年11月09日掲載】